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表現者、なのか?

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ヒトコトというポッドキャストで、稲陰正彦氏のインタビューを聴いていました。稲陰氏は僕の大学の教授だと思うのだけれども、残念なことにこういう面白い人のお話を在学中にほとんど拝聴できていない(平たく言うとダメ学生だったのです、本当に)。

その番組内で「表現者」という言葉を稲陰氏が使われておられました。そう言えば「表現」という言葉は、僕が親しくしている人も結構使う言葉なんだな。たびたび出てくる。でも、こと僕個人としては、この「表現」という言葉にあまり親近感を抱いていないな、ということに気付きました。

相変わらずモゴモゴと、ブログをメインに色々書いたり描いたり撮ったり作ったりしているわけですが、なあんか感覚的に「表現」という明確な意思を持ってやっていることじゃないなと。かと言ってただただ記録というほど軽くもないし、求道というほどカッコいい方向性があるわけでもない。なんだろうなと。

でちょっと考えたのですが、僕は自分というコンテンツを消費しているんじゃあるまいか、ということに気付きました。ひとり遊び、ということですね。

動いている自分と、動いていない自分というのがあって、動いている自分ってやつは、人と会ったり、飯を食ったり、本を読んだり、映画を観たり、美術館に行ったり、写真を撮ったり、という所謂一時的なコンテンツを経験してきていて、そこで蓄積したものを、動いていない自分(往々にしてPCの前でふんぞり返っている自分)が改めて二次的なコンテンツとして反芻している、その作業がWEBで行われている僕のモゴモゴなのではないかと思いました。

一次的なコンテンツの経験というのはしばしば突発的で刹那的で偶有的で鮮烈なわけだけれども、そういうものを着座してモニタと正対しながら儀式のごとく文字やら画像やらに起こしていく、これって結構実は贅沢な時間で、ここに大いなるゆとりを持っているので、一次的にキャッチした時には気付けないもろもろや、閃かない結びつきや、思いがけない他者からのフィードバックや、俯瞰したところでのエピソードの物語性みたいなものが出てきたりするのではないかと感じます。

動きまわっているのも好きで、そんな毎日PCに向かっているだけの日常だったら疲れてしまうのだけれども、喩え話で言うなら、外で獲物を体力フルに使って捕って来て、とりあえず腐るの早い内臓系はその場でいただいちゃってしまうにしても、大半の肉はその場で食べきれないので、家に持ち帰って熟成させながら、食べ頃を待って順次調理していく、というようなことを「経験」ということを材料にやっているんじゃないかと感じます。そういうことってもしかしたらノマドの狩猟民族的部分なのかも知れません。

などということを考えていたら、ああそうか、表現者でしっくりこないのは、「経験配達人」って言葉がどうにも自分は随分前からしっくり来ちゃっているからなのだなと気付いたのです。僕の仕事の屋号です、Experience Transporters(経験配達人)。


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